イエス・キリストは、神のひとり子として、
今から約二千年前に、神のご計画により、ベツレヘムで生まれました。
それは、神が、人間たちをお救いになるためになされたことでした。
マリアという、とても謙虚で、深く神様を信じる一人の女性の前に、
神からの御使いが現れて、
神の力により、救い主となる人が、彼女のお腹に宿ることを告げられました。
マリアはとても驚きましたが、ひれ伏して、これを受け入れました。
その何千年も前から、救い主が誕生することが預言されていて、
人々はずっとそれを待ち望んでいたのです。
こうして生まれたのが、イエス・キリストです。
「イエス」というのは名前で、キリストは、「救い主」という意味の言葉です。
(実は、イエスという名前そのものにも、「主は救い」という意味があります。)
イエスは、人々に向かって、このように語ったのです。
「私は道であり、命であり、真理である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(ヨハネの福音書14:6)
注: 父とは、神のこと = 天の父
「わたしを信じるものが、だれも暗闇の中にとどまることのないように、
わたしは光として世に来た。」 (ヨハネの福音書12:46)
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
(ヨハネの福音書12:47)
「わたしは世の光である。
わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、
命の光をもつであろう。」(ヨハネの福音書8:12)
イエス・キリストは、多くの人々の前で、数々の驚異的な大奇跡を行い、
重い病をも瞬時に癒し、人々を差別や苦しみ、貧困、窮地から救い、希望を与えました。
「自分は絶対に正しい」と思い込んで疑わない、ごうまんな人たちや権力者たちを叱られ、
「自分は何の価値もない」と思っていた惨め(みじめ)な人々や、
貧しい人々、罪人たちに進んで手を差し出しました。
イエスは、常にそういう人々と共に歩まれたのです。
イエスは、決して完璧ではあり得ない人間たち、一人一人と共に歩んでくれる、
完全な愛の人だったのです。
神からの啓示の書である「聖書」には、こうあります。
キリストは、神の身分でありながら、
神と等しいものであることに固執(こしつ)しようとは思わず、
かえって自分を無にして、
僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。
(フィリピ人への手紙2:6〜7)
しかし、イエス・キリストは、十字架につけられて処刑されます。
それは、人々を救うための、神様のご計画だったからです。
そしてイエスは、その3日後に、墓の中からよみがえり、
大勢の人々や弟子たちの前に現れました。
イエスが、十字架につけられて死に、さらに生き返った事実は、
わたしたち一人一人の代わりに、神の子イエスが罪を背負い、代わりに死んで、
これらを「ただ信じる者」には例外なく、その罪をゆるし、
救いと永遠の命を与えるという、神様からの驚くべきプレゼントでした。
それほどまでに、神様は、わたしたち一人一人を愛しているのです。
神様から離れて生きていること・・・・・ これを、「罪」といいます。
この意味において、わたしたち全ての人間は、生まれながらの「罪人」なのです。
2千年も経った今日もまた、イエスの十字架を信じ受け入れた人々の上に、
神の偉大で豊かな愛が注がれ、
世界中で多くの人々がその「罪」から救われ続けています。
神様は、イエス・キリストを信じた人、一人一人の上に、
その「愛」を豊かに注ぎ、必要な「力」と「知恵」、
永遠の「命」を与えてくれると、私たち人間に約束して下さったのです。
ここに、永遠の希望があります。
だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は、日々新たにされていきます。
(第2コリント4:16)
イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じるものはだれも、
決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
(ヨハネの福音書11:23〜24)
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友のために自分の命を捨てること、 これ以上に大きな愛はない。 (ヨハネ15:13) |
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